【質問答えます】なぜ研究し教える立場になられたのですか?

質問者Fさん「すみません2つ質問してもいいですか?

1.そもそも、なぜ今かかわられている学術を研究することになり、現在は教える立場にもなられたのか。きっかけや決め手について教えていただきたいです

2.今されている仕事以外の道を考えたことはありますか?ある場合、なぜそれを選ばなかったのでしょうか?」

僕「質問ありがとうございます。なんか僕の学術と仕事の経歴について興味を持っていただいてありがとうございます。参考になるかどうかわかりませんが、僕のバックグランドも含めて答えていきたいと思います。

僕の日本でのバックグランド:電気工学、材料工学科、半導体物性を学ぶ

まず、最初の質問、今の学術を研究して教える立場になったきっかけや決め手についてですが、僕の場合、親がものづくりの仕事をやっていて、小さい時からいろいろなものを作ることに夢中になりました。小学生・中学生の頃は、電子工作をしたり、プログラミングをやったり、アマチュア無線をやったりしていたので、将来技術者になりたいと考えたのはごく普通でした。ただ学校の勉強はあまり好きではなく、そんなに得意でもないので高校は進学校を選ばず工業高等専門学校(高専:高校と短大が一緒になったような5年間の学校)の電気工学科に入りました。ここの教育がすごくよかったのです。1年生から電気工学の基礎を勉強できました。起電力って何?電磁気学って何?っていう感じで苦労しましたが、3年生が終わった時点で大学の教養の数学、線形代数、微積分、微分方程式、フーリエ・ラプラス変換も終わっていました。そして5年生を迎えたとき、もっと工学を突き詰めて研究者の道を志そうと思い、卒業後1年勉強して地元の北海道大学工学部に編入しました。そこでは半導体物性を学ぶために材料工学(金属・冶金工学)に科に入り物性物理の研究室で半導体・原子炉材料の照射物性の実験&シミュレーションを研究しました。

転機は参加したアメリカでの国際会議

転機は修士課程の大学院生の時でした。指導教授が出席する予定だったアメリカの国際会議に代わりに参加するチャンスがあったのです。世界中の半導体製造プロセスの研究者が集まるような会議で、90年代の日本の半導体といえば「産業の米」と言われたぐらい華やかで、日本人研究者もさぞかし脚光を浴びていたんだと思います。この国際会議でも日本のトップ大学の教授・研究者が集まっていたと思います。日本人の参加者で修士の学生は僕一人。国際会議の講演の合間のランチやディナーなどは各国から集まった半導体研究者がテーブルを囲んで至る所でディスカッションしていました。僕はアメリカも国際会議も初めてで、拙い英語だけど必死に話しかけて交流したんです。知らないグループの輪の中に入って。せっかく国際会議に出たんだからっと思って。多分、相手の欧米人は僕が何言ってるのか全然わからなかったと思うけど、真剣に聞いてくれて、丁寧に答えてくれました。当時僕が熱心に読んでいた論文を書いたスタンフォード大学の研究者もうなずいて聞いてくれました。僕を一人前の研究者のように接してくれて嬉しかったのを覚えています。

そうやって溶け込もうとみんなと話していた時に、ふと会場の隅っこに目をやると日本人の研究者全員が同じテーブルを囲ってひそひそと話しているんですよね。僕も気になったから試しに一回その日本人テーブルに行って入れてもらったら、君は何者だ?学生なのに何でここにいるんだ?大学はどこだ?研究テーマは?ってウェルカムっていう雰囲気じゃなく面接官みたいに聞いてくる。ちょっと高圧的だったから委縮しながら答えたら、ある大学の先生が、君のテーマで研究して何になるのかね?って僕の研究テーマを非難しだした。すぐピンときた、どうやら国際会議に修士の院生の僕がいるのが気に入らなかったらしい。会議には有名な欧米の先生もいて学生を連れて来てたから、学生は僕だけじゃなかったけど、日本人の学生は僕だけだった。その日本人のテーブルはちょっと異質に見えた。ランチ、ディナーは毎回隅っこのテーブルに日本人だけが集まり、日本語でこそこそしゃべっている。そしてたまに欧米の研究者がそのテーブルに来て話しかけると日本人研究者は嬉しそうにニコニコして自分の研究テーマを紹介する。

会議で会った日本人教授陣

日本人院生の僕には依然尊大な態度をとるけど、白人の研究者やその学生にはニコニコして握手したり自分のテーマを説明しようと躍起になる。しかも自分から話しかけないで日本人同士で円卓を囲んでいるのにもかかわらず、話しかけられるのをずっと待ってる感じだった。当時世界一といわれた日本の半導体産業、その研究者らは国内にいると脚光を浴びてるけど、海外に出るとこんなに縮こまってる、って当時の僕は思っちゃったんです。しかも日本人の僕にはイカツイ顔である一方で、欧米人の研究者にはフレンドリーにニコニコぺこぺこ接していた。僕が学生だったからって?いいやアメリカの学生にもニコニコぺこぺこしてた。

それがね、なんかね、その時、こんな日本の大学の先生のように学生にとか弱い立場の人に対して威張ってる人にはなりたくない、逆に欧米の大学の先生のように分け隔てなく接する学者になりたいって思ったのです。それが日本で博士号を取るんじゃなく、大学院留学したい、アメリカのトップスクールで世界の秀才と切磋琢磨したいって思った直接の理由です。ただ、彼らの名誉のために言うと、実際当時半導体を研究している日本の学者がみんなそうだったんじゃなくて、たまたま僕が参加した国際会議で出会った方に、僕がそういう勝手な印象を持ってしまっただけなんです。20年以上も前の話だから当時の偉い先生はいまみんな引退しているけど、人格者も多かったはず。とにかく当時の僕は、その国際会議の参加がきっかけで、アメリカ留学を決心しました。

アメリカの大学教授のように分け隔てなく接する学者っていいなあ

そして一週間ほどあったこの会議の終盤にいろいろな人に聞きました。こんな感じです:

僕「アメリカの大学院生にどうやったらなれますか?」

教授A「そうだね、まず行きたい研究室の先生と仲良くなるといいよ」

僕「なれますか?」

教授A「なれるよ。メールして、学会で会って話すんだよ」

僕「今みたいにですか?」

教授A「今みたいに(笑)」

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僕「どうやったら奨学金もらえますか?」

ポスドクB「うーんそうだね、一番いいのはどの教授がお金を持ってそうかホームページで見るといいよ」

僕「どうやってわかるのですか?」

ポスドクB「コツはね、ラボの人数なんだ。博士課程の学生とかポスドクの数。数が多いほど学生を雇うためのお金があるってことだよ。設備の立派さで予想するより確実なんだ。」

僕「へえー」

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僕「君はどこの学生?聞いていい?」

学生C「いいわよ。Caltechの化学工学」

僕「CaltechってLAなんでしょ?」

学生C「LAから車で1時間ぐらいかな」

僕「入るの難しかったでしょCaltechって?どうやって勉強したの?」

学生C「学部は別の大学だったけど友達と寮でGRE(Graduate Record Examination:米国大学院の共通試験)の勉強したよ」

僕「GRE一緒に勉強してくれる友達いないしな。。」

学生C「なんとかなるわよ。グットラック!」

僕「。。。。ありがとう(大変だな)」

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ボストンでの サマースクール

そして日本帰国後、TOEFLとGREの試験勉強と願書の準備を開始したんです。修士卒業後6月にハーバード大学のサマースクールにジョインするためにボストンに行きました。そこで英語を3か月勉強した後ハーバード大学院の物理学科に聴講生として入学を許可されました。

入学を許可される前に、面接を受けました。サマースクールでキャンパスにいるなら物理学科に来て面接しようと担当の教授が提案してくれたんです。ジョージャイ先生だったかな。重力論かなんかの有名な先生って後で知ったんだけど、彼が入学を許可してくれて、僕にアドバイスをくれたの。

G教授「君の物性物理のバックグランドはわかった。奨学金は出ないけど、コースワークやってその後研究とかの進路を決めるといいよ」って。うーんお金が大事だ。奨学金が大事。結局奨学金が出ないハーバードには行かないで、日本に戻って働いてお金を貯めることにしました。

そして 地球環境工学 へ

そして2年後コロンビア大学の地球環境工学科に入学するんだけど、選んだきっかけは、この地球環境工学科がこの大学の工学部の前身のSchool of mine(鉱山学校)で、鉱石とか、冶金とか、金属、とかマテリアルを研究していたのが始まりだったの。そこで材料科学や材料物性を研究している研究者が多そうだったから地球環境工学を選んだんです。当時まだ地球環境学はまだ人気がなかったけど、コロンビア大学はEarth Institute(地球研究所)を作ってこれからは環境だ!って力を入れていたところだったんです。もともと北大では半導体プロセスのシミュレーション(計算)をやっていたから環境シミュレーションでたまたまうまくやれた。廃棄物の焼却で出るエネルギーを効率よく取り出すための焼却炉のシミュレーションがテーマでした。要するに地球環境工学は1)空気をきれいにする(Air)、2)水をきれいにする(Water)、3)ごみをきれいに処理する(Materials)、の三つ大きなものがあるんですけど、うちの3)の分野が僕の材料のバックグランドに近かったし、Energy Recovery(エネルギー回収)は物理系の知識も生かせるのでそれをテーマにしている研究室に入りました。あと指導教授もよかったんです。学生に愛があるというか。それで決めたというのものもあります。

大学院留学生の将来のユメ

それで、博士課程の学生だったころの将来の夢は、日本に戻るんじゃなくて、できればアメリカに残りNYよりももっと田舎の大学で(北海道出身なので田舎好き)くだらないジョークを言って学生とわいわいやるプロフェッサーになりたいと。でも教授職は、まあ競争が激しいですよね。卒業後は地元NYの日系会社に2年ほどいました。伊藤忠の事業会社で金融システムやオートトレードシステム(今でいうフィンテック)のSolution Architectをやって、そのあとコロンビア大学に戻ってポスドクを1年やりました。そのころ、僕の今の勤務校ニューヨーク市立大学工科校(CUNY City Tech)が2年制のアソシエイトプログラム(準学士)から4年制のバチェラープログラム(学士)を新設するのに機械工学科でコンピューターシミュレーションを教える人を探していました。で採用されたのが今の職場です。

長くなっちゃいましたが、きっかけや決め手はこんな感じです。」

今されている仕事以外の道を考えたことはありますか?

質問者Fさん「2.今されている仕事以外の道を考えたことはありますか?ある場合、なぜそれを選ばなかったのでしょうか?」

僕「今している仕事以外の道は考えたこといろいろありますよ。実際いろいろやりました。東京でもSE(システムズ・エンジニア)をやっていたし、NYでも2年間ソリューション・アーキテクトとしてシステム開発運用も指揮したり自ら現場に入ってやってました。大学の先生になったのは自分で自分のやりたい研究を続けたかったからかなーと思います。この職業もいろいろな人がいて、研究だけやりたい、 教育もやりたい、 大学業務(college/university service)もやりって出世したい、とかあると思います。日本の大学も最近変わってきましたが、アメリカの大学も優秀な人は自分の研究でできた技術を使って特許を取ったり、スタートアップ企業を作る場合があります。大学教授という仕事だからといって象牙の塔(教室や研究室)にこもっていられません。面白いことをやる、イノベーションを考える、自分の考えを外に広める、といったこと熱中してやれるのであればどの仕事もエキサイティングなものになると思いますよ。

仕事選びのコツ。人生偶然とかたまたまも多いですよ

東京大学の物理学科の教授だった竹内均さんがいってました。

1)自分の好きなものをやり、

2)それで飯が食えて、

3)尚且つそれが人に感謝される、

そういう仕事をやれって。10代の頃これを読んだ僕はそんな優雅なこと東大の先生だからできるんだ、一般の人はむしろ、

イ)好きでもないことをやり、

ロ)飯はギリギリ食えて、

ハ)業績が表に出ないから決して人から感謝されない、

って思っていました。でも、最終的に自分の生き方なんです、123)のサイクルを目指すか、イロハ)のサイクルで生きるか、自分で選ぶしかない。ポイントは1)の自分の好きなものをやる、という点です。そのコツは自分の好きなものを見つける、なかったら自分の好きなものを造る、ことに労力と時間を十分かけることです。または、3)と2)から考えて1)を見つけるのもいいでしょう。つまり、人から感謝されて、お金をもらえる仕事のうち自分が好きなもの、っていう絞り方でいいかもしれません。とにかく1)ができれば何とかなるんです。どんどん行動し好きなものを見つけましょう。

というわけで、大学で働くという僕の今の仕事以外の道は考えたし、やったこともあります。たまたま今の仕事が8年続いただけです。人生偶然も多いですよ。

応援しています。

マサトナカムラ 」

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