【質問答えます】先生の回答には“心血を注ぐ”という言葉がよく出てきます。先生が現在心血を注いでいる事柄は?【前編】

質問者Gさん「先生の回答には”心血を注ぐ’という言葉がよく出てきます。先生が現在心血を注いでいる事柄について、そこに至ったきっかけ、理由がありましたら教えてください」

僕「『僕のことの質問ですね。ありがとうございます。掘り下げてツイッターで回答します!』って短い返事をさせていただいていたので、ここではもうちょっと説明させてください。

僕はよく言います『凄いと思う事に心血を注げ!』って

僕はよく言います、”あなたのパッションはどこにあるのか:素晴らしいと思うこと、楽しいこと、悔しかったこと、涙が出るほど悲しかったこと、社会が間違っていると思うこと、抑圧されている人がかわいそうだと思うこと、健康で悩んでいる人のことや、また、会社・組織で消耗している人のことを何とかしたいとか、出産・育児・教育での問題等など、社会をちょっとでも良くしたいとか、何か自分が素晴らしい・凄いと思うこととか、そういうものがあるんだったら是非それを実現しましょう。そういう仕事や活動・プロジェクトを計画し行動しよう、って。そこに自分のパッションを見出し、熱中し没頭できるのなら素晴らしいと思います。そういう自分や社会がよくなりたいと思うことに心血を注げ!”って。

人生のステアリングホイールを他人に任せている

でも、心血を注いで何かに熱中するほど好きなものがない、やりたいものがないという人もいます。 特に若い社会人や学生は自分が自分が何をやりたいかわからないという方も多いでしょう。 いわゆるモラトリアム期間も大事です。ないのであれば無理に見つける必要はないです。その場合、その人の会社や上司が、やりたい事・やって欲しい事をとりあえずやることになります。また、学生なら、親や親戚・学校の先生がいいと思うことをやることになるでしょう。でもそれは自分の人生のステアリングホイール(車のハンドル)を他人に任せていることに甘んじなくてはなりません。

社会経験なしに、生涯心血を注げる好きなものなんて見つからない(と思う)

もしくはちょっと長い海外旅行に行ったり、大自然や美しい海岸の景色に身を委たりして、人生を見つめなおすといいとアドバイスする人もいるかもしれません。ただ、僕は自分の学生には自分探しの旅行や、やりたいことが浮かぶまでビーチで過ごすなどは、お勧めしたことはないです。なぜなら学生など若い人の場合、大抵そう言って自分探しのために世界に旅立っても結局ドラッグやお酒に溺れてしまったり、あるいはヒッピーや世捨て人になってしまいます。その結果、厭世的になったり、社会を恨んだりするようになり何をやっても続かないとか、定職に就けないでいる場合が多々あるからです。社会でいろいろ経験もしない状態で、好きなものや生涯心血を注げるものなんて見つからないと思うんです。自分探しの旅やビーチでのリラックスは、1)経験を積んで少し社会のことが分かった頃、2)今までの視点を変えたいとき、3)自分が何かをやっていてそれに迷ったとき、などは有効だと思いますよ。

天にも昇るような歓喜と真っ暗闇の絶望

じゃあ僕のおススメはなにかというと、とにかく行動すること、経験すること、体験することです。 自分が本当にやりたい事をやって、それに心血を注ぐと、そのチャレンジが成功する場合もあるし失敗する場合もあります。つまり、天にも昇るような歓喜も味わうこともできるし、真っ暗闇の絶望も味わうことができる。その歓喜も絶望も含んでの人生なんです。その一方で、自分は歓喜も絶望も味わわなくていい、絶望を味わうくらいならチャレンジしないで歓喜(成功した喜び)もなくていいという人の気持ちもわかります。 また、心血を注ぐもの・やりたい事が有るのか無いのか以前に、そもそも見つける必要がないと思う人もいるかもしれません。自分は部屋に引きこもって、ゲームしたりネットしたり、ごはんも親や他人が作って提供してくれたり。僕はそういう生き方もOKだと思います。

赤ちゃんが我を忘れてやる『よちよち歩き挑戦プロジェクト』

健康な赤ちゃんはやがて立ってよちよち歩きをします。立てるようになるまで、転んだり壁や床に頭をぶつけたりするかもしれません。立つことのできない赤ちゃんにとって歩くというチャレンジは危険極まりない行為です。机の角に頭をぶつけたり、転んだ先にガラスのコップがあるかもしれない。ただ、それでも本能的に赤ちゃんは、せっかく健康な足があるし、自分で歩いてみたいのです。公園で遊ぶ大きいお兄ちゃんやお姉ちゃんのように。でももし、転んで怪我するリスクを考えると自分の足で歩くのは嫌だ、はいはいするので十分、親にだっこしてもらって移動したほうがずっと安全って考える赤ちゃんがいたらどう思いますか?健康な足があるのに歩くのやめるなんて、もったいないと思いませんか?ケガするリスクを考えるせいで、初めて歩けたという感動・歓喜を放棄してしまっているのです。このよちよち歩き挑戦プロジェクト(?)を赤ちゃんが我を忘れてやるように、僕たちもやりたい仕事・熱中できるプロジェクトに我を忘れて活動しそれに心血を注ぐ、これをやらないのはもったいないと思います。

働く必要もないし食料の心配もない究極の環境

同じ理由で、自分の部屋に引きこもり歓喜も絶望も味わうことのない生き方は、はやりもったいないと思います。部屋の中は安全なのかもしれません、親や家族がご飯や掃除洗濯をしてくれるかもしれません。働かなくてもいいかもしれません。でも本当にそれがいいのなら、究極の理想の環境は母親の子宮の中なんです。おなかの中の赤ちゃんは、丈夫でやわらかい子宮の壁に囲まれて、温かい羊水の中で守られて、居心地がいいし安全でセキュア―なんです。しかも呼吸もしなくていい。ごはんも食べる必要がない。全部アンビリカルケーブル(へその緒)から支給されます。だから働く必要もないし食料の心配もない究極の環境です。人生の歓喜も絶望も味わいたくなければ、外の世界に出ないでずっと臨月の母親のおなかの中に留まっていれば快適です。ただしその赤ちゃんの人生は、産まれてこないことには始まらないのです。

絶望といっても、他人から見れば大したことはありません。ちょっと失敗するだけです。

よちよち歩きの赤ちゃんが一生懸命遊んだり我を忘れて何かに熱中したりしたように、僕たちも心血を注ぐ凄い仕事・プロジェクトを見つけて熱中し、人生の歓喜も絶望も味わってこそ、この広い世界に飛び出したんだ醍醐味だと思うのです。そして、絶望といっても、他人から見れば大したことはありません。ちょっと失敗するだけです。心血を注ぐ凄いことをして得た歓喜や感動から比べれば、大したことはありません。よちよち歩きをしようとする赤ちゃんは何度でも転んでも起き上がります。また立ち上がってただ歩きたいからです。熱中しているんです、歩くことに。大人だって自分が凄いと思う事に熱中できます。心血を注ぐということはこう言うことなんです。

Gさんの質問にもどりましょう。【後編】に続く


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